narrow curve

今年は永くて、まだあと二ヶ月もあるんだ、という私的感覚もありますが、色んな景色を視られたような気がします。

しかし、いつからか、「死」は当たり前の生の対立事項ではなくて、すぐ傍の「生ではない、何か」でしかなく、その何かを代償するという行為がつまりは生成文法を形成するのかもしれないということに自分内認知されてゆき、その文法について考えてゆくための過程が続くために在る意味性も再考してゆく中で浮かぶものが器官なき身体なのかな、と、アントナン・アルトーの移動中に一連の著書をよく読み直すときに想ったものでした。

ここにある、身体とは別の、欲望する身体としてのそれは一階述語論理内で格納されるとしたならば、命題はそこにはなく、何かしらいつも、仮定命題を自分で反芻し、メタ化する作業が続いていた気もします。

ジーム化、枝分かれする多言語によって通じなくなってしまう世界の崖際で失語するための発語に対峙しつつ、花は綺麗だったり、映画や音楽に胸打たれたり、シニシズムや虚無そのものに既知感染する、そんな瞬間も多く、でも、無為でもいいじゃないか、とも帰一したり、先ごろ、長崎駅近くの歩道橋のベンチに座って、ぼんやり考え事をしていましたら、修学旅行生の子たちに「写真を撮って下さい」、とふと言われて、相変わらずピース・サインや何度も写真を確認するのを見ていますと、世の中は大層な装飾で出来ていない、と我に帰ったりしました。

性善説として、良き消費者として経済学的にマトリックスを今は描くことは出来る限界はありましても、そこで出し抜く消費者やそうではない“金のならない木”までを何分割の図で試算してゆきますと、バグが入れば、何が正/負かそのものが反故になりますし、あらゆる学問分野はクロスオーバーしていく中で、マックス・ウェーバーやカール・ポランニーへの附箋を貼ってみるのもいいな、と感じもします。

そんな、“今さら”を考え進めてゆく30代でもいいのかな、と。