RADWIMPS「ブリキ」によせて

以前、彼らの『絶体絶命』(http://cookiescene.jp/2011/03/radwimpsemi.php)について書いたとき、偶景(アンシダン)の感じられなさとともに、そのオブセッシヴなまでに張り詰めた内容にやや距離があった。

思えば、リリース日は2011年3月9日。今から考えても、言葉を失ってしまいそうになる時期で、彼らはその後の4月からのライヴ・ツアーのタイトルを「絶対延命」と一文字だけ、変えた。2012年3月11日にはYou Tubeで「白日」という新曲を突然、発表し、今年も同じように「ブリキ」が発表された。これまでにないほどに優しい声と旋律、穏やかなピアノと刻まれるビート、シンプルなアレンジメント。

《もう少ししたらね もしかしたらね 全てが幻だったのかもね なんて笑える日がくるからね そのままで その日まで》
(「ブリキ」,以下同曲)

でも、幻ではないまま、延命したはずの希望的な断片は周回遅れでニヒリスティックに、やや、不気味な気配でこの2年で日本、取り巻く音楽の状況や文化を変えたかもしれないが、それによって社会的属性としての人間の業も垣間見えるとともに、捨てたものではない繋がりも確かに感じられた。大きく表現そのものが変わってしまったアーティストも居れば、一般人の自分でも明らかに意識も変わった。

RADWIMPSというバンドも不器用なほどに変わった。それは、器用なまでに変わっていないともいえる。あなたへの視線がより緻密になっていったことを感じるからだ。あなた、は野田洋次郎氏にとっては恋人だけを指す可能性からバンド・メンバー、ファン、汎的な人たちへのレンジが広まり、そこを言葉で埋め尽くしゆくことで、自然と「あなた」への重力は変容する。

2012年の「シュプレヒコール」というシングルでは過剰な、これまでどおりの彼らなりのステイトメントがポップに混沌しながらも、深刻に詰め込まれていたが、そこに併せて、収められていた「独白」により衝撃を受けた。野田洋次郎氏がサウンド・コンクレート的な音像の中で、ポエトリー・リーディングのようにこれまでのバンドの歴史、メンバーへの切ない想いが吐露されていたものだった。

個的で赤裸々で生々しい言葉群、と、その言葉群の切っ先に触れることで、誰かの想いでも地下深く掘っていけば、普遍のように思えてしまうような感覚があり、きっとポップ・ミュージックはそういったマジカルで、錯覚的に誰かの不安をそっと取り除くことにも意味がある気もする。大衆化した文脈には集合的無意識を束ねあげただけでなく、誰もがどこか、「心当たりがある何か」の語り部としてアーティストがときに肥大しながらも求められてしまう瀬を産んだのならば、匿名性が高まり、誰でも分かることがいいのか、は違うのだとも想う。

“彼ら”の物語は、“わたし”の物語ではない。でも、“彼ら”の軌跡は“わたし”の生活に関わっているならば、包含してくるべき領域とはグレイ・ゾーンの共有誤差なのかもしれない。

君がいなくたって仕方なしに 始まらざるをえない今日も空も 頑張ってはいるけども まるで違う父のよう 母のようでいたいよ

おろしたてのあの靴も おぼえたてのあの曲も 今もちゃんと前の明日を ぎこちなくでも行儀良く 1mmも動くことなく

この場所でしゃんと待ってるよ

この一言のために

おかえり》