労働とシステム

以前に、アジアのある多国籍企業の工場を視察に行ったとき、組み立てライン・オペレーションからアーム(手)の高度な動きまで、近未来のような世界があって、そこには不気味なくらいの効率にはかられた規律が敷かれていました。主管が仕切るという訳ではなく、全体的にシステマティックに機能性が張り巡らされ、ピークになれば、何とも言えないブザーが工場内に響き、数ヵ国語で示されるディスプレイ指示に則り、よりそこに居る方の役割は加速するようになります。

ポスト・フォーディズムの結果の、こういったオートメーションは実在としての労働をどう活かすのか、といえば、疑念を擡げざるを得ません。ただ、そこで組み上げられた製品が世界中に行き来し、日本にも届く訳で、その数分・数秒単位で刻まれるシステムが幸せな高度マテリアリズムを担保条件下に、生きる速度を確保せしめるとも言えるならば、その「速度」は健全なる何か、といえば、不安と裏返しになります。

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これを知っていないと、落ちこぼれるかもしれない、これに乗れないと、間に合わないかもしれない―結局は、前線で生きてゆくためには速度との抗いにもなってきますし、自分はそこから降りる、一抜けしてのんびりやっていこう、というほど、現今の市場は穏やかではないのも道理で、維持を「維持する(サステインする)」仕事以外に、維持することを諦めさせてゆく、そんな仕事の形質も増えてゆくのもやむを得ないのでしょう。

新しい価値が産出されたら、旧来の価値は淘汰されます。分厚い世界文学全集を揃えるのが「箔」だったいつかの日本と、今はKINDLEにでも落としてしまえばいい、その時間はたった数十年でも、やはり、数十年という重みです。

誰かがやらなくても、誰かが何かをしてくれる、その「誰か」はシステムそのものかもしれず、では、陽射しがキツくなれば、自動的にシャッターの落ちたその工場で、「時間」とは「体感」ではなく、「外付け」のようなものだとしたら、相対的に今、どういった労働の形式、労働対効果が再考出来るのか、多くの想いが過ぎります。