vedi Napoli e poi mori

 備忘録でもないですが、ブログという雑記スペースを持っておくのも、との周囲の声や自身の動機もあり、今日から少しずつ始めます。

 ここ最近、理由がありまして、テンペストについて調べていました。その際、考えるときにはどうしても一人の人物を考えなくてはなりませんでした。故・エドワード・W・サイード。彼が示したオリエントは精緻には中近東ですが、近代世界で色眼鏡として何かに劣位性を抱いていないという無自覚こそが悲劇であるということへの意識と、寛解と安堵の結果に由来する各自が持つ「詩」について。テンペストを想いますと、ウィリアム・シェイクスピアのみならず、最近のボブ・ディランの作品も自然と脳裏を過ぎるでしょうが、そこで分かることはライティング・バック(書くことによる反撃)が少しずつ世界で起きてきているということでもあります。

 対位法として、今、プロスペローの気持ちを携えた人たちは嵐よりも春を目指しています。プラハの春アラブの春、そんな春と民主化に伴うサクリファイス、そして、並奏されるのはヴェートーヴェンのピアノソナタ第17番かもしれません。同時に、ツァイトガイストを受け容れることができるのかどうか、そういった問いが頭を擡げることが増えましたが、批判への批判はつまり非主体的な装置性に取り込まれてしまうのも自明だからです。

 例えば、先日、精神科医の方に取材でお会いをしてきました。彼はベテランで百戦錬磨の方でしたが、アメリカでは周知のように、ドクターのドクターを持っておられ、自身の治癒のための医師の必要性を強く言っておられました。密室、カルテの中で行われる事象、更には、その外では「なにもない」ように日常をおくるにはどれだけの知識、強靭さがあっても艱難で、それはそういった職業に限らず、職場でパワーを保持して、一歩、ソトへ出れば、嵐(テンペスト)に力を奪われてしまう中で、親密圏域での相互承認を保持し、自己/非自己の断線を堰き止めるための努力。自己同一性をアイデンティティと訳すには、今は価値観の軸をどこに置くかそのもので変わってしまいます。その精神科医の方はマイケル・ウォルツァーの話をされていました。もしも、今が戦争状態にあるとしたならば、正義、倫理、自分の家族、どれを選ぶか、という選択肢があれば、自分の家族を選ぶだろうという問い自体が間違いであり、そういった問いが「成立」する設定条件自体が違う、と。
 つまりは、正義と倫理に軸を置く人たちは限られているからこそ、その正義と倫理に今、価値観を見出す人たちは知識人としての宿命をまっとうさせるべきだと言いたかったのかもしれません。知識人、という響きにもう意味が付与されなくなり、マージナル・マンである意味は喪礼の典にあります。

 さて。ボブ・ディランの『テンペスト』のサウンドの基調となっています1930年代のウエスタン・スウィング。もうこの世のものとは思えない、深みを越えた声から紡がれる仄暗い詩。愛と憎しみ、慈しみと悪意、ロマンとリアリティの両極性に引き裂かれ、加齢とともに自らの迫る終局に向けての“8 1/2”分だけピースを埋めるかのような推察さえできます。ジョン・レノンへの想いも込めた曲もあるなど、再読/誤読可能な部分がいくらでもあります。ただ、誤読可能ということが大事なのかもしれません。

 同じ人が同じものを観て、同じ感覚を得る、そういったことは当たり前ですがなく、近くの誰かの死には無関心でも、誰もの死に痛みをおぼえる人も居ます。許容範囲内、自身が持ち合わせられるだけの人生でどれだけのことができるのか、先日、ノーベル賞を取られたある学者は「これから、ようやくのこと、社会貢献をしていきたい。」というような旨を言いました。当該研究の是非は私は突き詰めません。ただ、社会貢献をする―その意思が社会的身体性を帯びてくるのは、一生の内でほんの一瞬のことなのかもしれないとも思いました。ただ、一瞬でも社会的身体性が欠如しなければ、誤読可能な想いはそのままで支配側の巧みな詐術をひるがえすでしょう。

 ピアノを前に、一音を鳴らすのに10年以上もの歳月を要したアーティスト、無音室での白昼夢、伝えないことで伝えようとする詩人…今年、溢れた多くの無音があらしに攫われないように、もうすぐ夜明けが近づけば、誰しもがナポリを観ることができる気がします。

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