“メロディー”を探す「Melody」の歌

誰かが気付くフレーズは誰をも阻害する)

大病や壮絶な現実、またはハレたることに巻き込まれた人がそれまでとは視ている景色が全く違った、ようになったという事例がある。花の香りに敏感になった。感情の機微が繊細になった。人生観が変わった。多様に言われるし、それぞれの来し方、嗜好も反映されるだろう。でも、それまでの生活が急変する人は少なからず居る。働くことが生き甲斐のようなシビアだった人がなだらかに、性格が変わったり、久し振りに会うと、表情が変わっていたり、そんな経験をした人はいるのではないだろうか。

当たり前にあった何かは、当たり前じゃないこと、というアフォリズムや、それは「本当」なのかどうかというより、人間が内的に抱える、目が覚めている間の「意識」には変性状態を起こすことがあるというのは忖度しないといけないかもしれない。オルタード・ステイツといえばいいか、“私”から日常の全容を捉えられる万能な意識があれば、私の“外”(の意識)はここまで複雑に分化せず、70億人もの差異に分かれなかったはずだというのは極論にしても、例えば、昨今の危険ドラッグを用いた人の映像を見て、「わからない」、「奇妙でしかない」と思ったとしても、そこでまた、自分の「正常さ」の物差しを持ちだしたとしても、それまでの知識や経験の蓄積で偏向していることもメタ的に考えないと、異常の対立軸にそもそも、正常はなく、各々の認知、判断速度には幅がある。無論、犯罪は「犯罪」だが、いつの時代にも犯罪だったことがずっと犯罪であるとは限らないという視点もいる。あの時代に問題なくても、今は問題がある、その逆もある。究極的には、人間が侵犯(審判)する領域とは美辞だけでは片づけられない、誰かや何かの峻厳な犠牲の下に成り立つが、そこを暗黙知沿いに、自分はまともだ、正常にやってきているといえる保証は実のところ、どこにもなく、そのまともさは相対的に自我の中心を虫喰った結果、何らかの自己完結、解消のパターニズムを繰り返させてしまう結果になりさえする。

どうにも気の晴れない平日の重苦しい朝に雨が降っていたら、蒲団から出たくなくなるメカニズムが汎的にあったとしても、そこへの解釈のパターニズムは個々の差分あるようで、実のところ、共応しているようなところがあるというようなことで、しかし、“どうにも気の晴れない平日”“重苦しい朝”“雨が降っている”“蒲団の中”という書割は非常に使い勝手のいい記号体系としてのラングなのも踏まえないといけない。どんな人にも思い当たるフレーズとは実のところ、誰しもを阻害する可能性があるからだ。

大きな現実、小さな声への退却)

まだ、ポストモダン的に思考的戯事が寛容だったときの“大きな物語”とは具体的に、それは戦争への不安や終末観、多くの要素群に絡めとられていたが、大きな“物語”は断絶するのではなく、マクロ大の現実として捻じれながら、10年代に急速にプレ・モダンネスへの退却を促進せしめているという言及への細部説明は野暮かもしれない。要は、我思わぬゆえに我在るように、外部性によって自己が仮設定されている瀬で、自意識とはクラウド化され得るひとつのステロタイプな鋳型でしかないのならば、自意識の中に真実(のような何か)がある、とされた90年代のJ-POPの生き残り組として、Mr.Childrenだけは別格のような在り方をしている。

スピッツウルフルズなどミリオン・セールスをあげるバンドが今も活躍している中、至って特異にしてサザン・オールスターズとは違う国民的な、と言ってもいい立場を保ちながら、2013年のサマーソニックで話題になったように、彼ら/彼ら以外の線を敷く境界が限りなくあり、おそらく、ミスチル文法というものがあるとしたら、新曲が出るたび、「過去の(彼らの曲の)○○のような〜」というコメントが躍るのは、それだけ各々に物語を作り得るバンドとして貴重な存在なのだと思うが、この数年の角の矯められたアレンジメント、“常套句”という曲名そのものがあったとおり、目新しさとは違うクリシェは彼ら自身が望んでいたのかもしれずとも、ライヴでの演出の巧さ、盤石なパフォーマンス、老若男女、多くの世代のみならず、生き方をしている人たちを巻き込む訴求性はより増しているように個人的に思えもした。

では、「聴き手の想像力、余白に任せている」と取材でも多くを語らなくなったメイン・ソングライターの桜井和寿はそれでも、何かしら世界という形質の手触りをより信じようとしているストラグルは垣間見える。意図的誤配を孕んだ表層語句の中に纏う倦怠や重さ、いつかの大文字の自分探し的なモティーフの無限循環の中にふと忍ばされる小文字の響き、はより減り、ミスチルミスチルがモティーフにしているような―そんな奇妙な感覚をおぼえもするのは、もはや共通言語がなくなりつつある瀬においての”たら、れば”のファンタジー性を共有しようとする最後の砦として彼らがあるのかもしれず、バラバラのままで、彼らは大きな言葉とフックのあるメロディーで、きちっと5分ほどのポップ・ミュージックを全うする律儀さにも合点がいく。

配信限定やファンクラブ・イベントで未発表曲を披露したりという状況が続いていたが、先日、フィジカルで久しぶりにリリースされた「足音〜Be Strong」は、ドラマティックでスケール感のある表題曲にして胸に残るMVも話題になった。

また、事前に配信されていた「放たれる」というバラッドと、CMタイアップがついているものの、「Melody」という新曲が3曲収められているが、アレンジメントから何から近年のフィル・スペクター的ともいえる、デコラティヴな分厚さに変化はなく、聴いていないのに聴いたことがあるような、彼らの音像が滲むものの、ここでは「Melody」という曲の多幸性に少し触れたい。キラキラとした音に、程よい「口笛」、「Sign」、「くるみ」辺りのウォームな空気感を孕みつつ、歌詞の端々には倦んだ気配と願望が往来する。

訳もなくて なんだか妙に こころが弾む夜だ
通り過ぎる風に鼻歌がついて出る

という歌い出しの「主体」の想いは、「私」性を迂回するように、“夢のようで、映画のようにはいかないと知りつつ心躍るメロディー”が“素敵に響けば、僕らの明日は透き通ってゆくのに”と飛躍する。恋人同士を巡る訳でもなく、主客が溶解した場所でタイトルそのまま、“「メロディー」の歌“であるのが細かく聴くと、少し怖くもなる。ただ、今、「街」と発語すれば、街の中で多様に生きる人の小声を汲み取れるというよりも、「街」という現象性が浮揚する可能性の大きさとは、同じ景色を見ている違う人たちの感性さえも周到に「街の中」で均質化されているということでもある。郊外論/都市論の分化線とは情報量の多さをどう捌くか、という主体性の問題ではなく、主体が客体性を捉えようとするときの限界線を意味するのではないか、という含みへの視角。

膨大な情報量を越えてくると、自己機制で「現実」を自分の側に寄せる。でないと、パニックになってしまうからで、ホメオスタシス的な何かがどこかで働くのも道理で。

クリスマス―みたいな)

「Melody」が個人的にそれでも、胸に引っ掛かってくるのはその響きの流れの良さに任せて聴いていると、そのバラバラの言葉列の“なにも言っていなさ”に、「何か」たる強度があり、それは混沌たる都市の雑踏、そう、カップル、高齢者から異国の人たち、ライトアップされた建物までうねるような熱量が渦巻く中で流れてきたとき、に“なにも言っていなさ”が空洞たる言語系へ架橋するダイナミクスに準拠する。

サビでこんなフレーズがある。

見飽きたこの街が クリスマスみたいに光る
そんな瞬間 今日も僕は探してる
苛立ちの毎日 行き詰まった暮らしを
洗うような煌めくハーモニー

クリスマスみたいに、光る、という表現も不思議だが、やはり、そんな瞬間を願望として、仮託されている。その後も、ぼんやりとした詩情と、宛名のない「どこか」との繋がっているはずだろうという想いが綴られるが、主人公らしき者は「ここ」にはいないがゆえに、途程、触れたように、「メロディー」そのものの変成過程が聴き手に、というよりも、聴き手の向こう側に投げかけられ、最後はこう終わる。

見飽きたこの街が クリスマスみたいに光る
そんな瞬間 今日も僕は探してる
涙を微笑みに 悲しみを喜びに
塗り替える そんなメロディー
苛立ちの毎日 行き詰まった暮らしを
バラ色に染めてくハーモニー

“メロディー”を探す「Melody」の歌。この歌のMelodyとは違う「メロディー」を追い求めるような漠然性がしかし、統合不全的にも思える雑然とした瀬に、そして、クリスマスというもはや宗教性も何も関係なくなった催事的な季節に朗々と流れるというのは、作者不在の物語の中で誰もが阻害されない現実を生きられる、イロニカルながら、個々の慎ましやかな希いにも似た何かにふと適応してくる、そんな気さえする。

散々、見飽きた街がクリスマスみたいに光るのを探す時間の中では、誰をも阻害しないのではないか、と。


足音 ~Be Strong

足音 ~Be Strong