生まれたての影を遊ぶように

もう一年も瀬に。そんな気がしないまま、きっとあらゆる側面で混迷は続くのでしょうが、生き延びた人や新しい環境に飛び込んだ人、もういいや、って投げた人、惜しくもここには居なくなってしまった人、多くの通過者たちへ余りある敬意を。

自分のことは、別にいいのですが、腱鞘炎になったくらい沢山の文字を綴り、その気化を待つ間に誰かから後ろから刺されるようなそんな感じで、図太く、虚無的に、そして、ベースにある人間への性悪説から僅かだけ感情は揺れたような、いや、そうでもないかもしれません。おそらく、自分が研究に打ち込んでいるときに、子供をあやしている母親や外回りの営業をしたり、部屋で、移動中で、ぼんやりと未来を探している、そんな方々の日が纏まって、世の中は成り立っているのでしょうし、知識人、もの書く人、もう言う人は常に自責と贖罪の念がないとやっていけないとも思います。

「ほとんどの人が読みもしない論文書いて、気楽そうだよね。」という遠国の知己の言葉には慇懃に謝るしかない、大学の90分の講義で納得できたことがない人たちの意識を代弁して、真面目に気を詰めますと、きっと恵まれた苦悩を、空港行きの急行に溶かしていたのかもしれず、生きないと、生きないと、という欲望の反面、ささやかで大きな死や喪失、欠落の連鎖に泣いては落ち込んでばかりいました。

近しい人たちには、もう適度なところで、と言われました。ただ、何か今、すべきことは他にあったとしても、この今、しておかないと、逃してしまう、きっとこの言葉は全く通じなくなってしまう時代になるだろう、そんな焦燥と諦念もありました。つねに、探していたのかもしれません、言葉の瓦礫の山で使えそうな言葉だけを。

「未来」という言葉は大雑把なので嫌いですが、今日が停まらない限りの明日の連なり、綾取りのように生まれる何か。それを未来と呼べる日が来るとしたら、「あの頃の君はよくやっていたよ。」、空の上に行った人たちや、もう会えることのない人たちからも労われるだとしたら、まだ時間や可能性は溢れていて、考え事をしていて躓いたときに目の前にあった、クローバーのように、それが四つ葉でなくても、殺伐とした日常に、ささやかな笑む瞬間は数え切れずあるような気もします。

花咲く森は 真夜中を忘れ 月の光に戻る 瑠璃色の夜明けを 待てず
柊の葉に 気を取られるから 上手く踊れないのさ
おかしいかい? もう家に帰ろう

(「ネモ」)