more thinking in while scattering flowers

ミニマリスト”というテーゼが今の時代では以前よりは違った響きを持ってきているようです。最小限度必要な生活条件を整えた者みたいなニュアンスでいいでしょうか。一時代前の哲学者的な意味合いではなく、ナチュラリストとしての側面も強く感じます。とみに断捨離、隠居、(必須ではない)移住といった言葉、意見群は散見され得ますが、どこか悠遠で掴みがたい語句のような気が自分の中では根深く、ある程度の年齢や経験を重ねた人たちの行き着く「彼岸」と置換しますには安易かもしれませんが、小さい人生の中でも“万が一“が起きますゆえにふと焦がれはしますが、すぐには「できない」のは正直なところです。但し、先ごろもほぼ同世代といえます1981年生まれの方の旅行書を読んでいますと、「自分がある種、バックパッカーの最後の世代かもしれない。」との記述がありました。『深夜特急』、猿岩石のヒッチハイク、90年代の自分探しの彷徨の中に何となく位置づけられたここではない、どこか―。それとなく貯まったお金と時間があれば、大学生などはフラフラと異国に出たものでした。記憶資源としてそこを懐かしむ情景もあり、でも、戻りたいか、といいますと、戻りたくなく。同世代でカラオケなど行きますと、小室系やJ-POPなど最大公約数の懐メロが何だか生育環境の諸因子を差し引いて、場を和らげますが、どこか、ノスタルジアの甘美な罠に自意識がまとめてコロニアル化されている気がして、妙な心にしこりが残ります。「あの頃は良かった」、のか。時間が解決してしまえば、よく乗り切れたという今が「あの頃」になりますが、あの頃の記憶の牢獄で無限循環的に生きている人も居ますし、具体的な疾患のケースも含めまして、そこでぐるぐる巡る「生」とは何なのか、との想いが膨らみます。90歳を越えて、穏やかに最期を迎えました祖父の晩年は大好きな高校野球や大相撲、戦争体験が破片的に混在しながら、認知症のなかで不思議な空間をさまようように、でも、見た目は健康体で溌剌としていました。そしてよく、地道に生きてきて、戦地で戦死した友を想い、成長してゆく日本を横目に祖父は「独り身の自分だけが生き延びて、家族がいたあいつがこういう景色を観ていないのは不公平じゃのう。」というようなことを言っていました。不公平や不条理とは生老病死の内奥で、人間が生まれてから切り離せない問題なものの、あの頃と、未来のほの暗さに引き裂かれるのは、時代背景はあまり関係なく、実存の「個」に準拠、担保付けされますからして、生きにくさの形質を考える所作はどうあってもいいのではないか、と改めて多様な契機が都度、附箋されていきます。今は今でしか観えなかったものもありますし、というのは人それぞれで、また、前述のミニマリズムの文脈沿いの有耶無耶といいましても、十二分に捨てるほど、モノや想い出や経験があるんだな、ってことではなく、(ミニマルに)なってゆく方向性でいいな、とは過剰な幸福度数の争いごとやマックス・ウェーバー的に、肥大していった資本主義や近代合理主義に対して実存的認知することへの多少の辟易、抽象性の高いマネーゲームが自我を囲い込むさまなどに止むを得なくも、「”それ“でもないな」と思う事柄が募ってきた、というのは自身がその恩恵を先行世代から受けてきたというのも根にあるのかもしれません。

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運ぶのも大変な分厚いパソコンから、携帯電話もあっという間に快適に変わってゆき、規制緩和の下に以前なら手に入りにくかったものでもアクセスの手続きが簡易になっていきました。また、遠国問わず、海外に行くのでも、飛行機に乗るのでも、また、ちょっとした文化的産物に触れるのでもまるで辺境の空港でも通じるWi-Fiのようにフリー化していき、それはフリーミアムとして牧歌的に名づけられていたのはつい10年代前後で、そこから、フリーミアム(Freemium)→シェアリング(Sharing)→メーカーズ(Makers)なりの流れを辿り、今はまたロジスティクスに於いてのIndustry4.0というように急速度で転回していきながら、無縁であるようにすれば、どこまでも無縁で居られるというのが情報の非対称性では片づけられない暗黙知形式知の分断差も「峻厳になっている」ことに鈍感で居られる証左なのかもしれず、カール・ポランニーみたく、高度市場主義経済の進捗とともに起き得ますコミュニティの結びつきの解体へのナイーヴな視座や「悪魔のひき臼」のうえで顕在している犠牲者はどの範囲まで犠牲者なのかは明瞭ではなくなっている気もしています。しかし、そこでよく出てきます大文字の“勝者/敗者”という二軸を置くことには進行形での価値経済、評判経済の節目が仮託されるようになり、反動的に自由度が増しているかのような錯視の中で以前とは形態が変わり、貧困(学)から過度の成功哲学自己啓発の領域を越えてきたような書籍群やあまたの論をなぞっていきますと、不可思議な感覚に襲われることも並列して、包摂します。どちらも極端で興味深いのですが、どちらも良さそうではないな、など。

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“欲望が、人をしている”と表現できますように、限りなく贅の限りを求めていけば、その先は、今は色んな形があります。それはある人なら不動産かもしれないですし、絢爛な飲食、はたまた、名誉や栄光だったり、と。でも、ある人ならば、ささやかなサークルでの生活を護ることだったりしますが、今はその壁が「縄抜け」できるように―本当は、どちらもどちらに払拭できない距離位相があるのですが、別として―知ることだけはできるようになってきました。なぜ、あの人はあんな良い生活しているのに自分はこうなのだろう。また、自分はこれくらいの節度で丁度、いいのに、あの人は無理をしようとしているのだろう。それぞれバイアスとしての自我が入りますから、虚勢や見栄は込みとしましても、厳重にCLOSED出来ていた何かにアンロックできるための構えは個々で軽くなってきたとも思えることが。SNS等でいわゆる、ABC、ANIMAL-BEAUTY-CHILDRENの三種を見ない日はなく、それらはコピーライティング的に”無難“かつ”越権性“がありますから、更に増殖していきます。画像が言葉に対して、訴求性を持つ度合いなども考えますと、「いい画」はそのまま、層を抜けて「届く」のでしょう。しかし、そこに、メタ・ネタやオピニオン的に政治的信条や宗教的倫理観、精神論などが挟まってきますと、前提条件の設定域が昔よりイージーになってきているのかと思ったりする機会も多くなり、ただ、ABCばかりでも苦痛になってゆく人の存在も思います。ペットロスで悩んでいる人が可愛い誰かの犬や猫の写真を観て、落ち込む。病床に伏している人が綺麗な景観に寧ろ打ちのめされる。子供に恵まれない人が子供の成長過程、写真を観て、というのはもっと深甚かもしれません。それぞれの事情ゆえに、「じゃあ、観なければ、止めればいい(と言えない)」世の中でもあり、難しいところですが、冒頭にかえりますと、何らかの降りてゆく人たちへの手立ては別に、経済・心理枠のセーフティネットに降りてきますからいいとしまして、では、複線化しています言論が麻痺しています中枢に参加許可はなくても、じっくり考えてみる少しの滞留を、と。ウロボロスの蛇みたく失礼ですが、ミニマリストも大文字の母数の決断に支えられました、「個」的な何かを越えました、よく分からないうねりに突然、人為的にでも巻き込まれるものですから、せめて、どんな状況でも胸に毅然たる花を、とも。