くるり「NOW AND THEN」を観て

1)

「滅びの気配があるから、万象は美しい」と云う。その気配に怯えているようでは、額面のままの現実は拡張されてゆくばかりで、ときに過剰に「造形」されてしまう。CGの淀川長治があの口調でCMに出ながら、齢80を迎えた浜村淳は月曜日から土曜日まで、お決まりのネタと、くどいまでの反復芸を織り込みながら、澱みなく、2015年の憂き世の常態を話す。関西で続いているラジオ・プログラムからのものではなかったが、GREAT3が『ROMANCE』というアルバムの中の曲「バビ二ボン」で彼の声を用いたり、昨年に解散したTHE BOOMが『NO CONTROL』というアルバムの「大阪でもまれた男」で彼の澱みない語りがフィーチャーされていたり、ということがあったが、それは象徴と記号の二分線で分けられるものではなく、象徴としての浜村淳の流暢な話口調を現代の中の考証学的な枠にピン留めしておきたかった気さえする。

2)

今や、亡くなった人たちの声がとても大きな意味をもって届くことがある。多媒体で、かつての達者な声を持つ人たちは亡霊的に何度も不思議なように存在を「繰り返す」。その点、一回性の消失を望むようなパフォーマンスをしていたTVの中でこそ、生きていたとさえ言われるタモリは、2014年3月に昼の『笑っていいとも!』という娯楽プログラムを32年で終わりにして、その後、自身の念願だった鉄道旅や元来のアングラで不可思議な場に回帰し、それでも、芸能界を引退した上岡龍太郎氏が言っていた、ドーナツのように、真ん中の核心は知らなく、でも、知らないことを知らないというのは恥ずかしく、外堀の知識でも深く話せるスキルを持っているだけなんですよ、という文脈に沿う(こういった所作もなかなかできない)ように幅広いフィールドで、智識を披瀝し、いつかの敢えての無難なハナモゲラ語から次のシフトへ入っている。亡き作家の吉行淳之介は「彼は胃腸が強いから大丈夫だ。」のような言を述べたというが、大概の場合、煙草や酒、ストレスなどでそういったものでキャリアを終える著名人が多い中、タモリの胆力は益々、軒昂にさえ思えてしまうのは確かだ。「アテを食べるから太るんだよ。飲むときは。」みたいな18番のセリフを抜きに、彼は一生懸命に“養生”を行なおうとせず、ゆえに、適度なバランスで生を活性させるべく、アンテナを増やす。

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就職氷河期のみならず、世の中が混乱してくると、必ず「安定した仕事を。」、「手に職を。」という風潮が生まれる。そのたび、資格学校は乱立する。学歴はシグナリング効果というものの、忍耐のように過ごす10代の大切な一年間以上の間を経て、入る機関は今や、職業訓練校、社会人養成予備校のようになっている。先日もホテルの支配人の方と話していると、「外語大学の生徒の方をインターンで雇っているんですよ。」というテーマになった。「英語、中国語だけじゃ対応できなくなってきていまして、また、諸言語には歴史があるでしょう。」とのことで、なるほど、と思った。でも、隣国もそうだが、日本の総人口が減り、勤労者が縮減されていったとしても、そんな「往来」は難しい時期が来ることもある。少しの国際的な摩擦で。そのときに、これまで通りにグローバルに、いや、だからこそ、原点に回帰に、という経営会議が起きても遅すぎる。実際に、蓄積したノウハウを持ち、多様なシナプスを持っている場が強く、長い社史や大規模なところを第三者機関が助けてくれるほど、甘くない。アンテナの増やし方(法)にも「固着」した概念があってはいけないのかもしれない。

3)

このたび、くるりは自身のアンテナに添うように「NOW AND THEN」と称して、来るべき2016年のバンド結成20年目に向けて、コンセプチュアル・ライヴを始めた。今回の第一弾は、メジャーデビューアルバムたる1999年の『さよならストレンジャー』、オルタナティヴな転機作たる2000年『図鑑』の二作にフォーカスをあてた内容。当初からの岸田繁佐藤征史とともに、現在のオリジナル・メンバーのファンファンが妊娠し、安定期に入っていないのもあり、新たに、ドラマーのmabanua、ギターの松本大樹をサポートに加えた体制で行なわれたが、『さよならストレンジャー』を少し振り返ってみたいと思う。

さよならストレンジャー

さよならストレンジャー

惜しくも亡くなってしまった、名プロデューサーにして音楽家佐久間正英氏とともに作られた『さよならストレンジャー』は、「東京」、「虹」という歌謡性を帯びた“ダイナミックなロック“たるリード・シングルを経て、1999年の春にリリースされたアルバムだった。浪人生のような三人のフォトグラフのジャケット、細部は凝られているが、オーセンティックで重厚なロック・サウンドと、巷間でのやや狂騒的なJ-POPブーム、小室系サウンドなどの鎮静化が起こりつつある中では、如何せん地味にも映り得た。時代背景と照合せしめるには、『さよならストレンジャー』は、京都という特殊な場所から東京、更には大多数のリスナーに向けて名刺代わりに伝えるには”こうせざるを得なかった“とも言えるが、その後、彼らの長いキャリアの側面で今作の曲は固定的なイメージを解し、その瞬間の色に変わる自在さを持っていた気もしただけに、何気なく演奏される「ランチ」、ピッチの上がった状態の「オールドタイマー」まで、くるりをしてカメレオン的に変幻自在に音楽性の移遷をして色んな角度から言われることがあるものの、湿っぽい、あの京都の梅雨が明けるか明けないかの肌に纏わりつく不快ではない叙情性は既にここにあり、重厚なサウンドと、フォーキーなサウンドがベースになりながら、ビートルズ『ホワイト・アルバム』的なサイケ性を京都的に意訳して、全体的には20代の若者の音とは思えない老成したアトモスフィアが形像されている。ストーンズ、ザッパ、ウィーザーレディオヘッドハイ・ラマズステレオラブカーネーションボ・ガンボスなどへのオマージュが逆回転するように。この『NOW AND THEN』ではその後のアルバムも取り上げられてゆくのだろうが、2014年には『The Pier』という多面的に拓けた最新のオリジナル・アルバムを作り、”泰安洋行“を続けるバンドがここに立ち返るというのは非常に興味深かった。このたび、初日のサンケイホールブリーゼで観てきたのだが、インタルード的なものも含め、曲順通り演奏される展開。今のアレンジメント、岸田氏の声で歌われる「傘」などは特に個人的にグッときた。

《無理やり笑って お願い笑って
幸せな、何も考えない幸せ》

(「傘」)

近年でもそうだが、メイン・ソングライターの岸田繁、そして、くるりは聴き手に強制的ではなく、ぼんやり託す歌詞、それに付随した曲が多い。「“そう”思ってくれてもいいけど、君は実のところ、“どう”思うのだろうか?」、そこを傘のただ一本を通じて、写し鏡のように預託する。例えば、「ばらの花」、「ワールズエンド・スーパーノヴァ」、「ハイウェイ」、「奇跡」などはお仕着せがない分だけ、ずっと聴き手を増やし続けているのもそういうことなのだろう。それぞれの生きてきた軌跡を重ねられる、曖昧で弱い部分。その「曖昧で弱い部分」をくるりは、いつも大切にしてきた。季節の移ろい、感情の移ろい、人生の儚さ、それでも、肯定していこうとするための附箋。そんな附箋の束が桎梏にならず、『さよならストレンジャー』は今の彼らの温度で、聞こえてきた。しみじみと、「りんご飴」も良かった。

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解散しながらも、いまだに熱狂的な人気を持っているUKのオアシスというバンドのライヴDVDに『…THERE AND THEN』という作品がある。彼らの故郷のマンチェスター、またはロンドンで行なわれた初期のライヴをおさめた、凄まじくテンションの高いもの。実際、イントロが鳴り、リアムが、ノエルが唄え始めれば、同じく、数万人規模でオーディエンスも歌う。最近ではフェスが定着したのもあり、シンガロングの風景も珍しくなくなったが、95年、96年のときの雑然とした中でのカオティックな大合唱はまさに“…THERE”だという気がした。

反面、このたびは、「NOW AND THEN」の通り、“NOW”の中に、『さよならストレンジャー』、『図鑑』が芽吹き直し、リアルタイムにその作品を聴いていただろう客層以外にも確実に染み渡っていた。シンガロングというより、ライヴで初めて聴くであろう曲に意識を集中しているような人も少なくなく、特に、『図鑑』というアヴァンギャルドな作品がそのまま展開されてゆくカタルシス得も言われぬものがあった。「ああ、「ピアノガール」だ。」とか素面に戻りながら、この曲をよく聴いていたときの情景が春霞のよう脳裏に浮かんだ。あの子が元気でいてくれたらいいのだけど、それを知る術もないし、だから、せめて、願いだけを託しつつ、「屏風浦」も懐かしく、しみじみと染み渡り、と、不思議なもので、叙情的に聴いていた『さよならストレンジャー』より好戦的で、アップダウンの激しさに時おりしんどさをおぼえていた『図鑑』の方が今、聴くと、侘び寂びでいう“寂び”の要素が妙に胸に染みた。「惑星づくり」のミニマルな変位、「窓」の切なさ、「ガロン」のグルーヴ。

図鑑

図鑑

そもそも、『図鑑』はジム・オルークなどの参加もあったが、音響工作やベックや当時のUSインディーとの共振、前作からの反動と苛立ちをベースにした野放図な若さ、ゆえになし得るマッドなテンションが迸っていたが、その合間にまだまだ“これから(THEN)”さえ見えない不安要素も散見されており、その不安要素が“今(NOW)”からだと別種のセンチメントとして届いたのかもしれなかった。しかし、峻厳に自意識を追い詰め続けていたがゆえの産物の二枚のアルバムを、こうしてライヴで体感すると、フラッシュバックだけでなく、あの時代の空気とは個々に実存的な重さをなぞるものがあったのだな、と改めて。

ドーナツ状に空洞化されていたのは90年代の終わり辺りのあの風景だったのかもしれない、と思ったら、アンコールでは、じわりと地平線が見えたので、安心もした。万象は不安定で再生される可能性があるから、滅びない痛みもある。痛みのアンテナが変われば、美の基準も変わるのとともに、彼らのこのコンセプト・ライヴのこれからが非常に愉しみになっている。複層もの”在りし声”が亡霊みたく歴史を累積、加速させてゆくものの、こういった遡求的に、今に還る試みとは、どうあっても、もはや、生き延びた者のある種の宿命なのかもしれない、としたら、生き延びる、歳を重ねることは決して悪いばかりでもないな、と思う。