経済学的に想うこと

例えば、一般公開講座で「経済学入門」なんて受けましても、相変わらず需要・供給曲線がどうこう…なんてことをやっていますし、それは悪くないのですが、問題ないとも思います。そこで、「グローバル経済化が進捗する中、経済の新しいパラダイム・シフトが希求されているのは間違いない。先進国諸国はグローバル経済に内在化されてしまったからだ。生産性の向上、雇用の確保、製品品質の高度化、技術力の精錬、教育水準のシフトアップを不可欠なものとした上で、高付加価値産業を持つ構造へ。産官学が…」という教科書的なことを言う識者はまだベタで「救いはある」が、俗悪過ぎるきらいも感じます。ただ、グローバル・インバランスを体感している人たちには響きを含むでしょう。

では、こういった文言を解体していきますに、まず、「グローバル経済が進捗する中、経済の新しいパラダイム・シフト」…基本的に、国際経済学を巡る基礎は変わっていないと言えます。1983年のジェームズ・イングラム。ある起業家が独自の技術でもって、アメリカの小麦や木材などを安くて質の良い消費財に替える事業を始めた、とあり、無論、産業界からは称賛される訳ですが、しかし、ある記者が調査を進めていましたら、その起業家が実際には小麦や木材をアジアに売って、その代金で製品を買っていることだけであった、と。錬金術じゃなく、これが、「貿易」論に行くわけです。貿易というのは他のものと変わらない経済活動であって、輸出品を輸入品に替える製造過程の一種の行為性を指します。なので、先進国の経済がグローバル経済に内在化されていたとしましても、実際にはかなり限定されたレベルで輸出、輸入量を弁えておく必要性があります、実数値として。

そして、次。”世界VS日本”、”隣国VS日本”でもいいですが、今は世界市場で競争が行なわれることになっているものの、リカードが1817年に言っています。「貿易とは競争ではなく、相互に利益をもたらす交換である。」-勘違いしている人が多いかもしれないですが、貿易というのは「輸出」を指さない、「輸入」です。目的論として。

輸出は国の負荷になりますし、輸入しようとする場合は売り手側に懐銭が要るから。さて、生産性を高めよう、自給率を高めよう的な俗説の誤謬に関しましても少し。生産性を上げましたら、他の国との競争で闘えるから、市場で有利に立てるというのは少し盲目的な視角です。国内の生産を増やせば、「消費が増やせるように」なるから良いわけです。各国が生産性の高まりを示していく世界では、生活水準の趨勢はどうなるのか、交易性を巡っての問題は出てきます。だから、貿易は「競争」じゃないのです。

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そして、雇用。これは、マクロ経済要因によって決まってきますので、と言い切るのは容易です。何故ならば、雇用の水準は短期的には総需要によって決まり、長期的には自然失業率によって決まります。「保護主義」を巡って恐慌を招く、愈よ「雇用創出政策」は底を打った、っていうのは、ナンセンスです。

ゆえに、今から経済(学)をやる人はケインズ、ヒューム、リカード辺りをちゃんと嚥下して、リプチンスキー効果や、ややこしい関数を憶えておきましょう、ということもまた真かもしれません。

経済学および課税の原理〈上巻〉 (岩波文庫)

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