CODE LINE

無精髭でボサボサの髪をコーディネイトしてもらったあと(HAIRCUT 100)、この数日はあれこれあった。そこで、「コード」のことばかり考えてもいた。

「スーツを着て真っ当な格好をしている」
「小綺麗な格好をしている」

のが汎的には「正」であるとされており、場所に拠ると、「ドレスコードを敷かれているケース」もあるものの、「身ぐるみ剥がされて」みたらいいのに、という瀬でもあるのかもしれず、確かに、一つの組織に入ったり、専門職になるのは「大変なこと」は察するまでもなく、自身は「結果」には興味がなくて、「過程」、そしてその「結果を経ての人間性」にしか選好しない。僕の周囲はそれこそ官僚、学者や弁護士、医者等もいるが、「人格に問題がある」人がそこそこに居て、それはまた仕方ないとは思う。職種と性格なんて噛み合わない。

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何故なら「○○(職種)になったら、△△(人格)になれる」という曲線を描いて、「△△を研鑽するために、○○を択んだ」ではないケースが多いのも真なわけで、そうすると、岡村靖幸が「ターザンボーイ」で歌ったような「せっかくオール四か五で法学部に受かっても裸でモテなきゃ仕方ない」という導線を理解って無さ過ぎる訳で、また「職域」に群がる女性、男性たちも多いのも事実で止むを得なく、官僚や学者になってからモテ始めた人は周囲でもよく見受けられる。

「今日の紳士、淑女」も苦節20年、いや30年で役付きになったのだろう、そして、ある程度「名のしれた場所」で意気をプライドも堅持しているのだろう。でも、「だからといって」、社会という場で境界人として節度の敷居が見える化されてもいて、そういう張り子を対象化され、とことん「王様は裸であること」を見詰めないといけないのだと思う。

「専門フリーク」という言葉もあり、「一意専心」もいいものの、それによって零れた知識の断片を拾い上げたり問いたりする際に気付きがあって、今回、僕は川辺でそれを気付いた、そんなところはあった。そこで、現れた再・追尾認識にこそ興味があって、あとは「どうでもいい」というのは本音で、逆ケースで自身をスキャニングしてきたら、避わすのだろう。

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いずれは、誰もが「名がある」ようになり、「名前を失える」うちに失ってしまえばいいと想い、「名もある場所」での面従腹背に当たり前に神経を尖らせるようになる。だから、この年齢にもなって文化への導線を保つ曖昧な領域にも足を置き、二進法でルートインする道は大概が蛻の殻だとも感じているもどかしさも否定しない。創られた孤独や、フラットな狂気よりもリアルな悲観的な視座を。しかし、リアルな悲観的な何かよりもアクチュアルな価値観を。そして、アクチュアルな価値観はアブストラクトな想念の畳倒しで帰納され、ときに夢想や妄想から発明や未来は育まれたりする。すれ違いの悪意も邪気も対面の優しさにプロテアンすることもあるかもしれない。

たとえば、あるとき、公園とは、そこに集う憩いはつまり、「誕生」し、多くの名もなき人たちが行き交い、別れる。理由などなくても。

公園の誕生 (歴史文化ライブラリー)

公園の誕生 (歴史文化ライブラリー)